岡沢家のホームページ


ざわざわぼんじゅー梅雨明宣言号

1999年7月15日

ざわざわー

オカザワ家の近況;

いやいやいや、阪神好調よーん。夫は今、毎日、オールスターのファン投票、というのをインターネットでやっている。
「で、だれいれたの?」
「セリーグはみんな阪神の選手にきまってるやないか。パリーグは、松坂いれてやった。1日1回投票できるからな、毎日投票できるんや」
「ふーん、仕事ヒマなの?」
「ひまじゃないよ、全然」
「ふーん、楽しそうだね。」

 というわけで、今回のざわざわ、去年行ったガスペ、P.E.I(プリンスエドワード島)旅行記だよーん。どこが、「というわけ、」なんだ?と思わないでくれ。

1998年6月モントリオール
 私たちは、カナダ最後の夏を楽しんでいた。忙しかった。寂しかった。通っていた保育園、学校、習い事、それぞれの友だちとの別れを惜しみつつも、引っ越し前のアメリカ横断という大旅行の計画は着々と練られていった。(アメリカ横断記はすでに書いた)大旅行の前に娘たちの学校が終わるやいなや、カナダ東部を例のボロ車で走破したのだった。8日間の中旅行。

6月23日(火曜日)
 本日、娘達の小学校は終了。お迎えに行くと、モントリオールの英語テレビ局が取材にきていて、異様に盛り上がっていた。(日本でもよくある、今日で学校は終わりだよーんというニュースのため)それに便乗するかのように、校長先生を交えて、お別れの記念写真を撮っていたら、カミラは泣きだし、ゆかも、号泣しだして、ぞくぞくもらい泣き。本当にかわいそうだった。遠くにいても友だちだよね、といえるのは大人だけで、子どもなぞ、一緒にじゃれあって遊んでこその友だちだもの。

 帰宅し、涙がかわく頃には、心を切り替えお掃除に熱中。旅行前はまるでおおみそかのように家がきれいでないといけないのだ。虫がわくのがこわいだけですが。

 夫が仕事を終えて帰宅、さー出発だ、夕方だけど。今日は、できるだけ移動ね、とケベックシティーまでたどりつき、ホテルの立ち並ぶ新しい通りにモーテルをみつけて止まる。1泊90ドル。オカザワさんにしちゃー、高いわよねぇ。だが、こういう観光地の真ん中ではしょうがないし、今日はなにかのお祭りの前日だったのでどこもいっぱいだったのだ。 夕食も、選ぶ余地なくとなりのレストランへ。レストランといっても、頼めるのはピザやポテトで、味も、マックと変わりない。でも、27ドル。高い。

6月24日水曜日
 このモーテルはプール付きだった。朝、出発前に泳ぎゃなきゃ損、と子どもたちを入れる。さすがに誰もいない。水はつめたい。でも、旅の始まりだぜい、と夫はビデオをまわしていた。彼はふだんの生活では、ビデオはおろか、カメラさえ、手にとらないが、旅行となると、どういうわけか、ビデオをきっちりまわす。記録せずにはおれないのか?日本人の本能なのか?

 さ、今日もひたすらガスペに向かうだけの1日だぞ。学校が終わって次の日ということで、けっこう、ひと目でバカンス組、という車がある。おともだち、おともだち、となごみながらいくが、やはりここらは無数にキャンプ場や、バカンスエリアがあるので、どれも道をそれていき、私たちの車だけ、なんてことも多い。

 昼は道すがらのサービスエリア(といっても、トイレとピクニックベンチがあるだけ)で、持ってきた残飯でピクニック。パンとハムと果物が中心だ。相変わらず貧相ざんしょ?前回のアメリカ横断記、評判が良かったが、(感動した、と言ってくれた人もあり)「いやー、あれだけ貧相な食事だとは。食事の内容が細かく書いてあるのが、変だな、と思いながらも、ふんふん、今日は何$ね、と思いながら読んだわぁ」「今日はリッチでこの程度か?と思った。」などと食事に関するコメントが多かったの。内容がつまんないのでそういうコメントしかできなかった場合もあるだろうが、私らの貧相ぶりがこの飽食日本において、「なんか、すがすがしいなぁ」と思わせたのではないだろうか?違う?

 ま、いい。夕方は、小雨の中を、人気のない、さびれた漁師町のようなところに宿をとり、近くのマックへ車を走らせた。ここのモーテル、隣にいたのはアメリカ人家族だった。白髪の若作りのおじさんがいきなり早口でフレンドリーに身の上話をして(アメリカだなぁ)彼がヤマハのお偉いさんを引退して、悠々自適に暮らし、今はいい車でアメリカ大陸を縦断し、ガスペに向かうところだというのが、一瞬にしてわかったのだった。

「日本ではボートが売れてねぇ、いいお得意さんだったよぉ」(英語だが、そんな風に言ってるのはわかるのだよ)夫に何をしている?と聞いて彼が脳の研究だというと、「おーそうか、じゃ、私の頭もみてくれないかね」などと反射的に答えたりするのも、やっぱりアメリカ人なのだった。

6月25日木曜日
Gaspe1  朝、食事なしで出発。ペルセ(ガスペの名所ペルセ岩のある町)へ。ガスペ半島の先端の町なのだが、拍子抜けに田舎の普通の町だ。観光客はいるにはいるが、町が観光客のためにやっていることといえば、案内所と数軒のみやげ物屋、レストラン、くらいのものだ。ここらへんは、高名な画家が隠居して数多く住んでいるらしく(別荘として、というのが多いみたいだが)観光地化しないのが、売り、なのかもしれない。

 おなかもへったので「どうも町でここ1軒しかなさそうだぞ」のパン屋で飲み物といっしょにいろいろ買い、公園で食べた。寒い、寒い。ジャンパーはおって、強風の中、パンと牛乳を食す。

 ガスペといえば必ず写真に載っているペルセ岩。ここは干潮時には歩いて行けるが、その時間は数時間で終わるので、観光案内所の掲示する時刻にあわせ、観光客がぞろぞろと向かい、ぞろぞろと帰る自主的なツアーが毎日2回催されることになる。

Gaspe2  日本の潮干狩りを思い出させる砂歩き。潮の香り、打ち上げられた巨大ワカメ。モントリオールでは、川しかないので、海にいる、ということに、なんとなく郷愁を感じる。子供達も、かにやら魚やら、貝やらわかめやらに歓声をあげる。岩だらけの砂浜を10分ほど歩くと、ペルセ岩がそびえたって見える。ここのわきをはいつくばるように、しがみつくように先端まで行って帰ってくるだけなのだが、みんな憑かれたように進む、進む。(時々軟弱な人が途中でやめて引き返すこともあるが)けわしい岩、というだけならそこまで危険じゃないのだが、これが一面、コケむしていてつるつるなのだ。で、両面通行できないところが多々あり、そうなるとだんごになって渋滞する。私も、こういうことは不得意なので、かなり手間どりながら歩いていた。で、考えると、干潮なので、何も岩を登りおりしなくても海面20センチほどなんだから、そこをあるけばすいてるし、わりあい平坦ではないか?しかし、実行してる人がほとんどいない。30人通り過ぎて1人ぐらいサンダルのままじゃぶじゃぶいってる人はみかけたが。よーし、ラクするためなら、平気だぜ、と靴と靴下を脱いで入った。瞬間、後悔した。これまで生きてきてこんな冷たい水に足をつけたことがないぜ、というくらい冷たかったのだ。タイタニックで、デカプリオが凍ってたでしょ。あんなふうになるんだろうな、と思うほど冷たい。「浅いのに、平坦なのに、浸かれない」海で遭難するといかに冷たく苦しいかということをつらつら考えながら、結局、すべる岩場でアドベンチャー歩行したのだった。

 帰ってきて、今度は半島と海を見渡せる小さな山へ車でのぼる。もうすでにペルセは海水に囲まれていた。ここは、東の果て。

 次の町へ行く。ガスペ半島のガスペという町へ。やはりここが半島の商業、産業、観光業の中心のようだ。

 案内所ですすめられたガスペジー博物館へいく。ガスペという町は最初にフランス人(ジャックカルティエ)がアメリカ大陸に上陸したところ。(上陸してすぐ帰ったんだけど)アメリカ白人文化発祥の地とも言えるのだ。そして、それは、フランス人とイギリス人の流血の戦争の始まりの地でもある。最初は原住民族は温かい支援をし、友好的にはじまったらしいが、ヨーロッパ人のもたらした病気で免疫のない原住民が大量死したりして、今にいたる、対原住民問題がどんどん拡大していく。英仏も絶え間なく争っている。

 ここらへんの、勝った、負けた、の歴史を垣間見ると、英仏は永遠に本当の和解はないんじゃないかと思う。何しろ、ケベックの車のナンバープレートにある州のスローガンは「私はわすれない」である。(これは意訳であり、実際は「私は覚えているぞ」だ。何を?「イギリスに負けたことを」だそうだ。ガイドをやってる友人が教えてくれた。(ある本には、18世紀に母国フランスが見放して英領にになったことをだ、と書いてあったけど)げげ。こんなこわいスローガン掲げてるのは、あとにも先にも、ケベックだけだと思う。他は、野ばらのくに、とか、美しい山と湖のくに、とか(カナダ、アメリカのかなりの州のスローガンを読んでいたのに、記録しておかなかった、悔やむ)他愛のない、かわいいのなんだけどねぇ。でも、時々、そのスローガンを勝手に変えてる車もあってね。「リースランド(借りてる土地)」って書いてあるのがあって、乗ってるのはユダヤ人だった。うーむ。

Gaspe3  話は戻って、ここの博物館。夏だけのバイトをしていた、ガイドの大学生は、英系でありながら、たどたどしい英語で、「私の先祖はイングリッシュなのよ」と話していた。ガスペ出身で、「ここを愛してるけど、卒業しても帰ってこれないと思う。仕事がないから」と言ってた。英仏のどうしようもない確執を感じ、半島内陸はムースの棲息密度が一番高いという事実を知って博物館を出る。次はフリオン国立公園へ向かう。ここは、島を除けば、アメリカ大陸の東北の果ての国立公園。

 半島の付け根に車を置いて、先端にある灯台めざして、往復8キロの行程を歩く。沖合いにときどきくじらをみながら、家族で踏破。さすがに帰りは下の二人がばてて、夫に肩車などしてもらっていた。うさぎややまあらしも出てきて、夕暮れの中、しんみりとほっこりとして歩き通したのだった。気のせいかもしれないが、どうも、歩いていると、時々動物の気配を感じる。自然いっぱいのところは、ある程度は観光客がいてくれないと、なんとなく恐い。ひ弱だなー。

Gaspe4  大西洋といえば、ロブスター!しかし、貧乏な私たちにはレストランでロブスター料理を頼めない。ガスペで唯一のショッピングモールにある魚屋さんで、ゆでロブスターを1尾とほぐした身だけのロブスター1パックも買った(27ドル)。調理道具がないので、料理できないのが、かえすがえすも残念だ。やはり、ガスペはキャンプ、炊飯旅行がいい、とこういう時、思う。宿泊先のコテージの海岸べりでピクニック。この時、夕焼けが、絵より美しく輝き、蚊の大群の攻撃も許すほどの感動を覚えたのだった。しかし、やはり、夕方のピクニックはやめたほうがいいな。かゆい。

 ここのコテージ、なんと間仕切りはないものの、2ベッドルームなのだった。シングルが2つとダブルが1つ。これで50ドル。5000円だよ!このロケーションで、この広さ。ほったて小屋でシャワーだけだが、満足じゃ。

6月26日金曜日晴れ
 朝はもちろん、朝焼けの中、海岸べりのピクニックベンチで質素な食事、リッチな気分。

 出発して、昨日入ったレストランに置き忘れた帽子を取りに行く。つかわれていない灯台の沖合いであざらしをみつけてよろこぶ。野生の動物を偶然見つけるだけで、ここまで嬉しいのは動物園の入場料がういたからか?

 ガスペ半島の北側の海岸線を行く。友人家族に「北側はつまんないわよ」と言われていたのだが、本当につまらなかった。たとえが失礼だが、何もない日本海沿いの国道を走っているよう。空は曇り、波が荒く、家並みも寂しい。手入れが滞っている家、朽ちた家も風情と思えない。これが、何百キロ続くと、やっぱりつまらない。で、ガスペ半島の内陸はムースがうようよいるはずなので、中央を南に貫く2号線を走って、ムースに会おう!とルートを変える。

 これが失敗だった。なんと、ほとんどがダート道だったのだ。ここらへん特有の赤土がどこからかトランクの中にぼわぼわはいってくる。たまに向こうからトラックがくると、砂埃で視界不良。スピードも出せないし。ムースどころじゃなかった。(それでも窓から目を凝らしてさがしていたけど)

 ジャックカルチェ山の登り口につき、ピクニック。ここを登ればムースがいるかも?と言われたが、ここは片道8キロ。チビ3人連れて軽装で昼から上れるようなやわな山ではなかった。当然、あきらめ。

 299号線に出て(ここは広い舗装済みのハイウエイ)ひたすら南下する。時間も遅めだし、目的地までつけないかも?という気持ちもあり、見事にすいていてまっすぐな道なので、思わず、スピードがでちゃったらしい。(ニューブランズウイック州に入っていた)
Gaspe5  ロイヤルマウンテンポリースのパトカーにつかまったのだった。サイレンも鳴らさずに警告灯だけで後ろから付いてきて何も合図をしない。何かあったのかと車を止めると、警告をしたのにすぐに止まらなかったろうと注意された。知らんがね。
 100キロ制限のところを110キロぐらいだったのと、初犯(?)ということと、チビが3人乗ったボロ車の外国人だったことが幸いして、警告だけで許してくれ、おまけに「こどもたちにこれあげてもいいかな?」とニコニコ顔の熊のステッカーをくれたのだった。これにも、女王さまの警察隊、というネーム入りだ。わーい、わーい記念だ、記念だ。しかし、暴走が許されるケベックとは違うなぁ。気をつけねば。

 目的地である、プリンスエドワードまでは、たどり着けず、バサースダという町のコンフォートインに宿をとる。(63$)近くのモールで、スープとパンの夕食をとる。わびしかるかる。

6月27日(土曜日)
Gaspe6 昨夜の強い雨風がやみ、曇り空。コンフェデレーションブリッジを通ってプリンスエドワード島へ入る。これは、島にかけられた、世界一長い橋。昨年の夏にできたばっかり。これで、観光客がどっと押し寄せて、島の観光客倍増!はホントなんだけど、実際は、アメリカからの客がふえて、ちっともお金を落とさないわ、渋滞、混雑がひどくなったわ、で問題山積み、なんだそうだ。

 この橋、車に乗ってると左右は見渡す限り蒼い海、じゃなくてコンクリートの壁なのだ。景色の見えない、高速道路を走ってるだけ。遠くからみると、なかなか良い感じなのだが、実際は、なんの感動もない。実用本位なんだろう。この橋をいい気分で渡るなら2階建て観光バスがよかろう。で、島に入るのはお金はいらない。出る時に往復料金をとられるシステム。コストを安く、多彩な旅にするには、橋を使って島に入り、フェリーで、ハリファックス(ノヴァスコシア州)に渡るのがいいと思う。(私たちは日程がきつく無理だった)

 さて、橋のたもとにある、気合いの入った(赤毛のアン仕立て)観光案内所で地図をもらってシャーロットタウンに行く。ここが、中心地で、有名なアンのミュージカルはここである。これを見るためにきたようなものだからして、あらかじめチケットを母と娘二人分購入する。約100ドル。息子は言葉がわからないのでパス。夫は赤毛のアンを知らないのでパス。さて、開演は夜の8時なので、ひとまずモーテルへ帰る。夫が買いに行ったケンタッキーフライドチキンで夕食。

 赤毛のアンだ。夏だけらしいが、ほぼ毎日やっている。お客は満員。日本人もけっこういるが、やっぱり、エーゴの人が多いようだ。私たち日本人は、アニメや映画や本で内容を知っているから、わかるだけで、実際のアンのしゃべりなぞ、とうていついていけない。弾丸のようにしゃべるんだもん。比喩とかも、アメリカの歴史とか文学を知ってないとわかんないし。それでもマシューが死ぬところは泣いた、泣いた。今年のアンは、ダイアナは肥満ぎみという設定だったのが、疑問だった。

 座った席のとなりがたまたま日本人で、高校生の女の子だった。ノヴァスコシアの田舎町にホームステイして1年、もう帰国なので、ステイ先の家族がここへ連れてきてくれたそう。町に日本人が彼女だけ、という好条件で、今では日本語は話しにくくなるほど、英語は上達したそうな。白人の男の子がかっこよくて、学校生活が楽しくて、絶対またここへくるんだ、とはりきっていた。英語がしゃべれるだけじゃ、仕事はないのよ。英語と他の何か、がいるんだからね。などと、おばさんは説教してしまいました。彼女、今頃、日本てだからイヤなのよ、とかブーたれて、脱出をもくろんでいるんだろうな。しかし、高校生の女の子を一人で出す親が偉いよなぁ。私もそうなれたらいいけど、自信ないよ。

6月28日(日曜日)
Gaspe7 モーテルを出発、ティムホートンというミスタードーナツみたいなチェーン店で朝食。甘いドーナツやらマフィン、とコーヒーで朝食をすませるのが普通なのよね、ここでも。

 島の最東端の灯台へ行き、家族で6ドル払って、灯台ツアー。激しい波、とばされそうな強い風、寒い。灯台守の暮らしはわかったが、6ドルの価値は、なかったな。

 カベンディッシュ(アン関係のものはほとんどここにある)

Gaspe8  モンゴメリの育った家やら、墓やら、グリンゲイブルス(復元)やら、主なところはいちいちお金を払って見るのだった。私は若い頃、アンも一通り読んだし、その世界にも憧れたので、それなりにおもしろかったが、夫は、「なんだっつーの?」と終始思っていたはずだ。隣にあるゴルフ場をみて「家の隣にゴルフ場なんていいよなぁ」ばかり言ってた。私も思った。ここは、今まさにアンにかぶれている人、が来るところだ、と。私みたいな、「好きだったのよねぇ」の過去形の人ではアカン、もったいない。日本からくる人には、ここの田園風景とか、異国の雰囲気とかで十分満喫できるかもしれないが、アンそのものは、旬の人でないといかん。ノンノ特集、赤毛のアンを訪ねて、の特集をむさぼり読んでる若い人がくるべきよ。そういう時ってお金ないもんね。教訓;旬の旅は借金してでもせよ!

 文句たれながらも、一通りめぐっていたら、夜になり、安いモーテルは満杯。高いおしゃれなペンションは、家族5人が泊まれる部屋はなく、延々ドライブの果て、サマーサイドという町でやっと部屋がとれた。午後10時だった。当然、夕食はないも同然。手持ちのパンや果物でおなかを満たす。その頃、日本人友人家族で金持ち組は予約してあった超有名おしゃれペンションでユーガにすごしていたらしい。同じ時期、同じ場所へ行っても、旅行記はまったく違うものになるのだ。それはほとんどカネのあるなしによる。もちろん、どっちにも長所あり、短所あり、と思っておこう。

6月29日月曜日
Gaspe9 アンが降り立ったケンジントン駅の跡地を見に行ってから、こんどは島の北の岬へ。ここは、象さんの形の岩がある。なんと、道におじさんがいて、見に行くんだったら、入場料4ドルいるという。ほったて小屋もたっているので、信じないこともないがなんか怪しい。けれど、ここで言い争う気もなくて払って資料や写真をもらって見に行く。ふむ、確かにエレファントロックでんな。それだけだったが。

 次は西の果ての岬の灯台。高級そうなフレンチレストランがあって、ここで結婚披露宴をする人もいるらしかった。もちろん、ここでは食べないので、さっさと南へ向かう。途中に見つけたレストランで、シチュー、ナゲット、ターキーサンドなどをテイクアウトにして、ビーチで食べる。泳ぐには冷たいが、子供達は思う存分遊びまくり。

Gaspe10 さて、もう島はいいかな?と橋をわたり、ニューブランズウイック州へ入り、モンクトンの町へ。郊外の巨大ショッピングモールと遊園地とホテル群が密集してるところで宿をとった。夕食の買い出しへモールへ行き、いつものように、総菜やら、ホットドッグやらをホテルの部屋でとる。

6月30日火曜日
 もう、日程もきついので、あまりみてまわることができない。で、選んだところは、モンクトン大学にある、アカディアン博物館。前述した、「私は忘れない」にも関連する悲劇、300年前、主にフランスを母国とした、初期入植者(アカディアンと呼ばれる)が英仏戦争の犠牲となって、18世紀になって主にアメリカ各地へ強制移住させられた。家族も恋人もちりじりになったりしたその悲劇の歴史を知ることができる。車で走っていても、アカディアンの旗(フランス国旗に黄色い星)を掲げてる軒先も見えるし、末裔がちゃんといるんだな。ケベック州もそうだが、アメリカ大陸というのは、民族とか言語とか、歴史とかが、どうも気になってしまうところだわ。

 ふむふむ、なるほどね。こういう歴史モノに関する資料は豊富に日本にあると思えないので、よい学習だった。

 民族の誇りは、いつも戦争と隣り合わせだ。宗教も然り。日本人としての私は、「アンタ、なにもそこまで思いつめんかて」と思ってしまう。外国に住んでみると、そういうもの抜きにしては、自分を確立できないんだろうな、というのもわかったけど。島国のファジーな日本人でよかった?

 セント ジョンという町の古い市場で、見物がてら、昼御飯。こどもの頃行った近所の公設市場を思いださせる。地元の人が多いようだった。ここの魚屋さんは充実、安い。ロブスターのほぐし身やカニ、温かいチャウダーにパンなどで、デザートのドーナツやら果物まで買って20ドル。片隅に食べられるところもあって、素敵な市場だった。

 リバーシングフォールズへ行く。あいにくの雨だったのと、時間がずれていたので、見られなかったが、ここは、「鳴門のうず潮」なのだ。ほかにも、カバードブリッジやら、何やら、見所は多々あるニューブランズウイックなのだが、私たちには、帰途の宿泊地でしかなかったのが残念なことでありました。

最後の宿泊地はケベックの州境手前にある、エドモンズトン。見事に何もない(観光的なものは)ところだった。宿泊はリパブリックホテルという、町営ホテルで82ドル。マックで買ってきたハンバーガーで夕食。室内プールで、最終夜をしめくくった。(帰宅後、ここで、多量の洗濯物をいれた袋を置き忘れたことに気付く。頼んでモントリオールの家宛に送ってもらったのだが、届いたのは、数カ月後だった。船便だったのだろうか?)

7月1日水曜日
 今日はカナダデイ(カナダの建国記念日)だというのに雨だ。モントリオールの華やかで、楽しいパレードも、雨でしょぼくれちゃってるだろうな、と思いながら、ただひたすら、帰途のドライブ。どんな小さな村でもカナダデイの催しをやってるのかと思いきや、その気配なし。国旗を掲げた家もなし。都会の観光地でないと、そういう催しは楽しめないわねぇ、まぁ私たちは2回見てるし、いいけどぉ。

 夕方にモントリオールに着く。よしよし、虫もわいてないぞ。ということで無事に中旅行を終えたオカザワ家でありました。

あとがき
 書き終えたら、なんと明日から7月ではないか。野村阪神は弱っちくなってしまった。今まで夢をありがとう、と言うべきか?

 昨日のテレビで、巨人の試合をシンガポールやらハワイやらの海外へナマ中継できるようになったと言ってた。
「巨人の試合しか見れないんじゃなぁ」

と夫は言ったが、海外にいると、

「巨人の試合でもいいからみたくなるんやで」

そうやって、カネのある巨人は海外のファンも増殖させていくわけか。きたないぞ、巨人。

 梅雨まっさいちゅうの日本。停滞する梅雨前線で、西日本は大雨の被害続出。小学生が白昼に行方不明になるわ、広末涼子が早大初登校で、大騒ぎ。国会じゃ、君が代、日の丸が法制化される見通し。バンバン、脳死移植が施行されていて、野村監督夫人のサッチースキャンダルはとどまるところをしらない。

 いつも日本はエキサイティングでござんす。楽しいざんすよ。

 じゃ、このへんで。次回はカナディアンロッキー編をお届けしたいわ。おるぼわー!


【Back】